先だってホディンキーさんの記事「ニバダ グレンヒェン トロピカル クロノマスター。お手ごろ価格でチョコレートダイヤルの世界へ」を拝読しました。やはり自分が主有している時計について書かれた記事を読むと異様にテンションが上がりますねぇ(笑)
そして今回、幾つかの興味深い関連記事に触発される形で、私なりに腕時計の「エイジング加工」について考えてみる気になりました。所謂「フォティーナ(偽物の経年変化)」についてのお話です。こんなマニアックな「隅っこなネタ」… 誰にも読まれないんだろうなぁ~ (汗)
「フォティーナ」について語るには、対象を一旦広げる必要があると考えました。そんなわけで「美術品」をテーマに据えて話を進めますが… 初めに、私個人は「美術品の過度な修復に概ね反対」の立場であることを明記しておきます。理不尽な形で被った「不幸なダメージ」ならともかく、環境要因や時間経過で蓄積された「正当な変化」に関して言えば、それはむしろ美観の底上げに繋がる「財産」だと考えているからです。
当然のように腕時計に対しても同じく考えておりまして。オーバーホールを頼んだとしても、研磨を伴う「大胆な仕上げ」に関しては謹んでお断りすることがほとんどでした。特に自分が付けた傷は自分だけの「歴史」ですから、そこには愛おしさすら覚えます (*´∀`*)
修復は善?? それとも悪??
にもかかわらず、まるで散らかった自室を掃除するかの如く安々と「修復」される美術品は少なくありません。美術品が完成した当時の「フレッシュな姿」を見たいと考える「奇特な人」がいらっしゃる証左なのでしょうが、ぶっちゃけ私には「無用な行為」としか思えないのです。執念すら感じる高度な修復技術自体には尊敬の念を抱きつつも「そのままの方が絶対に良いのに」としか思えないケースの多いこと (;´Д`)
絵画にしろ彫刻にしろ、年月の経過が「絶妙な塩梅」でもたらす変化というものがあります。例えばバチカン市国に現存する「システィーナ礼拝堂の天井画」… 主にミケランジェロの手によって1500年代に描かれたフレスコ画の壮大な作品群ですが、世界最高峰の修復師が1980年から19年の歳月をかけて手を加え、描かれた当時の鮮やかな色彩を見事に取り戻しました。めでたしめでたし… ではないんです (;´∀`)
当然ながらこの修復には様々な批判がありました。ちなみに礼拝堂内部に掲示されている絵画の「がんこな汚れ」の正体は「煤」。日々灯される蝋燭から出る煤と埃が合わさり、それらが長い年月を経て積み重なることで、刷毛で掃いたくらいでは落とせない汚れの層を形成したのです。煤の主成分は炭素ですから、何かで溶かして除去するしかありません。そしてその際に使われた「溶剤」が、煤と一緒にオリジナルの筆遣いを溶かしてしまったのではないかと言われています (;´Д`)
腕時計好きの皆さまならピンと来たはずです。「それってオーバーホールを頼んだら、過剰な仕上げを施されて戻ってきたときのアレか??」と思いませんでしたか??
それこそ時計の針を巻き戻して、作られた当時の輝きが戻るなら価値がありますが、元々のケースのプロポーションを変えてまで輝きを取り戻したところで、あまり意味があるとは思えません。それは絵画でも同様でしょう。
記憶の拠り所を失う
「年月の経過で積もった煤も歴史的価値の一つ」と考える人もいます。例えば私が中学生の時に買ってもらった図録で見た「天井画の写真」は間違いなく「煤だらけのバージョン」でした。その汚れにこそ歴史の奥深さを感じましたし、子供心に畏敬の念を抱いてたと思います。
修復されてキレイに生まれ変わった「天井画」は、私が憧れたミケランジェロとは別物になりました。修復肯定派の方が聞けば「それこそが本来のミケランジェロの色使い」と一蹴する類いの話かもしれない。ですが、煤の薄皮を剥がされた天井画から受ける違和感はどうしようもないのです。修復終了時の結果を画像で拝見したとき、それまでの過程を特集したNHKの番組で感じた「嫌な予感」が的中していたことを知りました。少年時代の大切な記憶が、その拠り所を失ってしまったのですから (´;ω;`)
煤と埃の説得力
ご存じの通り、ミケランジェロの描く神々は「異様にムッキムキ」なんです。ミケ師匠が神の威厳を「筋肉の鎧」として表現したかったのかどうかは解りませんが、冷静に考えたらかなり珍妙な絵面ですよね。ところがそこに煤と埃が「天然のメディウム」として混ざることで、修復前の天井画には「こんな肉体主義の神の国だってあるかもしれん!!」という厳かな説得力が備わっていたのです。
ミケランジェロが描き上げてから数百年という年月は、人類創世以前の神話の時代に遡ることを思えば比較にならないほど短い時間ですが、それでも人類が見たこともないエデンの園を想像させるには十分な説得力があったのです。時間と環境が培った最高の演出があってこその「荘厳」。天井画の修復は結果として、かけがえのない歴史を「リセットする」ことになってしまいました (;´Д`)
天井画の修復が正しかったか否かについては、後世の判断を待つとしても… 誠に恐ろしいのは「二度と煤けた天井画を見ることはできない」という事実でしょう。もちろん、さらに400年も経過すれば同じように煤ける可能性はあります。しかし、一旦リセットされて再び煤けた作品に、後世の専門家がどのような評価を下すかは誰にも解らないのです。
歴史は不可逆であるべきだ
大前提としてお話ししますが、一番大事なのは「自然の摂理でそうなった」という事実だけだと思います。「システィーナ礼拝堂の天井画」は決してほったらかしで煤けたわけではありません。信者に「神の世界」を見せるための「教材絵画」として、最大限大切に扱われ、存分に実用の使命を果たした末の「煤だらけの姿」だったはずです。数百年前の信者が祈りを捧げつつ見上げた天井画を、現代の私たちが同じように見上げる… それこそが歴史と美術を尊重する上で意味のあることだったと思います。
「一旦新品同様に磨き上げて、再び歴史を歩ませればよい」… 腕時計で例えるなら傷だらけのケースを研磨して、ボロボロに腐食したダイヤルをリダンで載せ替えるような感じかもしれません。腕時計ですら「そんなことしたら台無しですがな!!」と鼻白む方は少なくないでしょう。人類全体の宝とも言うべき「システィーナ礼拝堂の天井画」なら尚更です。
アバンギャルド過ぎる修復で逆に人気の出てしまったスペインの壁画「Ecce Homo(この人を見よ)俗称・サルのキリスト」のような「大失敗案件」は言語道断ですが、どんなに良心的な理由からであっても、歴史を逆行する行いには相応の危険があると思います。高い価値を持つものほど「不可逆」であらねばならないことを真剣に考えるべきです ( ー`дー´)
腕時計の場合を考えてみよう
「そこまで言うならもう一度煤まみれにしてやろうじゃないか!!」とはいかないのが美術品。扱いに繊細さを擁する絵画では特にそうです。美術品のエイジングなんて、悪名高い贋作事件でしか聞いたことがありませんしね。要するに戻すことも進めることも叶わないのが歴史。だからこそ好事家のお歴々が「アンタッチャブルな価値」にメロメロになるわけですが… (;´∀`)
美術品と実用品の中間にある「腕時計」の場合はどうでしょうか?? 特に価値があるとされるものの中には、一級品の美術品と変わらぬ金額で取引されるものもありますが、この先は庶民の私でもギリギリ入手できる可能性がある時計をイメージしつつ、話を進めたいと思います。
古い時計がボロボロなのは当たり前
例えば「過度なリダンに価値無し」のような考え方は、当然ながら対象の時計が積み重ねてきた歴史の「分断」を嫌ってのことでしょう。ある程度の本数量産された腕時計… つまり「全体の中の個」を考えるとき、年式から言って「これくらいボロボロになっていて当然」という常識的な基準があると思います。
中古… 特にヴィンテージと呼ばれるくらい古い時計と相対する場合は、この「常識」こそが「失敗しない買い物」の道しるべになるでしょう。「年式にしては状態が良い個体」に出会えばそれはご褒美かもしれませんが「良すぎる個体」に関しては疑ってかかるくらいが丁度良いと思います (;´∀`)
歴史を尊重するからこその「フォティーナ ウォッチ」
美術では禁忌でも、腕時計なら(ある意味)許される「歴史的価値の擬似的創出法」があります。それが俗に言う「フォティーナ ウォッチ」です。
「フォティーナ」とは何ぞや?? ですが、経年変化「patina」という単語に偽物を意味する「faux」を合わせた言葉… ある種の揶揄を含んだ造語です。すでに胡散臭い空気が漂ってますか?? まぁそう言わず続きを読んで下さいな (;´∀`)
一番解りやすく「フォティーナ」として定義されているのは「夜光塗料」でしょう。ヴィンテージに見られる色合いを再現したものが所謂「フォティーナ夜光」と呼ばれるもので、すでに多くのメーカーが当たり前のように取り入れています。ここまで来ると「フォティーナ夜光」に関しては完全に市民権を得たと述べても間違いではないでしょう。「あの黄色く『着色された』夜光が嫌いだ!!」とのご意見をお持ちの方もおられるかもしれませんが、時代の本流には逆らえません。好き嫌いは趣味の問題だと言えます。
ちなみに私自身はこれまで「フォティーナ夜光反対派」でした。「白く真新しい夜光が年月の魔法で黄色く枯れていくのが良いんじゃないか!!」と、さも真っ当な立場を通してきたのです。今もその土台部分の考え方は変わっていませんが、やはり時代には抗えません。それに何と言いますか… 明らかに巧みになってますよね?? ヴィンテージ感を醸すエフェクトが (*´ω`*)
「ホディンキー」さんの過去記事によれば「フォティーナ夜光」を最初に使用した時計はジャガー・ルクルトの「メモボックス トリビュート トゥ ポラリス」だそうですが、発表当時のメディアは驚きとともに総じて好意的な反応を残しています。というのも「スーパールミノバ」に代表される現代の夜光塗料は高性能故にラジウムやトリチウムのような変色が起きにくい。そこで「フォティーナ夜光」が「見た目のヴィンテージ感」を確実に得られる手段として有効であると評価されたのだと思います。歴史を尊重し、素直な憧憬に従ったからこその「フォティーナ夜光」だとすれば、これはこれで意味のあることではないでしょうか??
マジと悪ふざけの境界線
夜光に関する限りは筋金入りの愛好家諸兄も「やむなし」と考えているかも知れません。最初から「黄色い夜光の方が似合っている」時計だってありますし、一種の「カラー夜光」だと考えれば、そう目くじらを立てる話でもないでしょう。
ただ、他のパーツ… 例えば「針」がヴィンテージ加工されていたならどうでしょう?? 反射的に抵抗を感じる人の数は跳ね上がるのではないでしょうか??
トリチウム夜光の「焼け」は大なり小なり必然的に起ることです。ウチにもトリチウム夜光のチューダー サブマリーナがありますが、もっと身に着けて屋外に出してやっていれば、紫外線をたっぷり浴びて現状よりさらに濃い暖色になっていたかもしれません。
年月の経過でほぼ必ず変色する前提(トリチウム夜光などの場合)があるからこそ「フォティーナ夜光」には一定の説得力があると思います。ですが、針やダイヤルに起きる「パティーナ(経年変化)」にはそこまでの法則性がありません。ですので針やダイヤルに施す「フォティーナ」に関して言えば、それは「予測込みの想像の産物」と言えなくもありません。実際「いやいや、そうはならんやろ??」みたいなトンデモ加工を見ることもあります。その辺りですかね。見ようによっては「悪ふざけ」にも見える「フォティーナ」に対して、ある種の拒絶反応が起きるのは (;´Д`)
「フォティーナ ウォッチ」は冒涜か?? それとも救済か??
ここで今回の記事を書くきっかけにもなった「フォティーナ ウォッチ」… ニバダ グレンヒェンの「クロノマスター(トロピカル ダイヤル)」の全体像を見てもらいましょう。フォースナーのリベットブレスに換装したこともあって、ヴィンテージ感マシマシでございます(笑)
1960年代のロレックスのダイヤルに使われた黒い塗料が激しい変色を見せることは良く知られています。トロピカル クロノマスターのダイヤルはそう言った経年変化を模して作られた模造品に過ぎません。果たしてこれは「歴史に対する冒涜」にあたるのでしょうか??
「本物」のトロピカル ダイヤル… 例えば見事に色褪せたサブマリーナーを何本もお持ちの方が見れば、このクロノマスターのような「フォティーナ ウォッチ」は愚の骨頂かもしれません。ですがこの分野に関して言えば、憧れだけではどうしようもないのです。運良く素晴らしい色変化を獲得した個体に出会えたとしても、きっと心が折れるくらいに高額だと思いますし…
「退色の可能性のある個体」を手に入れて、使いながら変化を待つというやりかたもあるでしょう。ホディンキーさんの記事によると1990年代のデイトナにも退色が見られるそうですから、ワンチャンそっち狙いもあるかもしれません。だとしても… 買えないんですけどね。ぶっちゃけお金がないので (;´Д`)
要するに、私のように「お金もない」、人生の残り年数からいって退色を待つ「時間的猶予もない」人間にとって、ニバダ グレンヒェンが与えてくれた「トロピカル クロノマスター」のような「フォティーナ ウォッチ」は、手の届かない夢を見させてくれる「唯一の救済」かもしれないのです。大袈裟でも何でもなく、そう思います。
フォティーナの愉しみ
歴史的価値の高い「経年変化」を模倣して作られるのが「フォティーナ ウォッチ」。要するに「なんちゃってヴィンテージ」である事実は、どう足掻いても変えようがないのです。ですが、そこをまるっと飲み込んで受け入れたなら、こんなに奥深い解釈のできる加工もないと思います。
まず施された「フォティーナのあり方」で、メーカーのヴィンテージに対する考え方がある程度読み解けます。例えばクロノマスターの場合、ダイヤル関係のフォティーナ仕上げは「これでもか!!」ってくらい強烈です。しかし、ケースに関しては極々キレイなまま。
ダイヤルにこれだけの仕上げを施せるニバダ グレンヒェンですから、ケースのエイジングだってやろうと思えばやれるはずです。そこを敢えてキレイなままにしておく… 確かに、ケースにエイジングを施せばよりリアルなヴィンテージ感は出るでしょう。しかしそれだとリアルに寄りすぎてしまうため「余りにも興がない」と考えたのではないでしょうか??
バキバキにフォティーナを仕込んだダイヤルとピカピカなケースのアンバランス。私はこの辺りにニバダ グレンヒェンの… 「フォティーナ ウォッチに対する矜持」を見たと思っています (*´∀`*)
また、フォティーナ仕上げ自体が概ね「手作業」であることも見逃せません。故に「汚し」の具合は個体ごとにバラバラで、それこそが「個性」になっているのです。貴方が購入したクロノマスターと私が購入したクロノマスターは、見た目からして全く異なる個性を持っているのです。ね?? 愉しいでしょ?? こういうの (*´ω`*)
フォティーナで「お手軽ヴィンテージ」の世界へ
正直、本物のヴィンテージ ウォッチは現行品のように「気軽に使える」わけではありません。全体的な劣化は明らかですし、防水は「無いに等しい」場合が多い。気象条件やその日の行動を考慮した上で慎重に使わないと、いつ何時、取り返しの付かない事態に陥るとも限りません。雨が降っていればヴィンテージの時計は候補から外す… 私自身はそんな使い方です。
そこ行くと「トロピカル クロノマスター」のような「なんちゃってヴィンテージ」は断然楽です。何も考えずに着ければ良いのですから (*´∀`*)
それでいてヴィンテージ ウォッチの「繊細な味」を堪能することもできる。ヴィンテージの見た目は好きだけれど、機械の心配をしながらなんて楽しさ半減… そんな風にお考えの「腕時計ライト層」にこそ「お手軽ヴィンテージ風」、フォティーナ ウォッチを使ってみてほしいと思います。
格好良ければそれでいいじゃない!?
私だって「フォティーナ最高!!」と割り切っているわけではありません。ですが、フォティーナを一種のカルチャー… 「ファッションの一つ」だと割り切れば、それを拒絶する理由はどこにもないと考えています。愛好家の端くれの小さな拘りで、こんなに「格好良い味付け」を施された時計を遠ざけるなんて… 勿体なさすぎますしね (;´∀`)
大学時代の話しですが… 古着屋さんでデニムを買い、そこに黄色のペンキを塗りたくって、怪しくもグランジなボトムを作ったことがあります。同級生には「なにそれ!?」と否定されましたが、私個人はご満悦でした(池袋で友人と待ち合わせて遊びに行く際に履いていったら、本気で嫌がられましたが… )
今風に言えば「盛る」に近い感覚でしょうか?? 凡百のユーズド リーバイスでも、ひと味効かせて「盛る」ことで、他とは違う… 何か特別なものが生み出せるように思ったのでしょう。「人と違うことがしたい!!」と考えたのは当時の美大生にありがちな拘りだったかもしれませんし、一種の「ハッタリ」だった可能性もあります。
私は「フォティーナ」にそれと似た何かを感じるのです。少しの背伸びと、特別な何かが生まれる予感… ヴィンテージの格好良さに触発されて生まれた「フォティーナ」に感じる「独特のくすぐったさ」の正体は、そこに「若気の至り」にも似た懐かしい何かを見たからではないかと考えています。
ヴィンテージのテイストを極々素直に再現することの「愚直な格好良さ」。そして少々の「やっちまった感」。その辺りにシンパシーを感じる方であれば、未だ評価の定まらないところがある「フォティーナ ウォッチ」であっても、つまらぬ先入観を捨てて、気軽に楽しむことができるはずです (*´∀`*)
「フォティーナ ウォッチ」に倫理的な問題はあるのか??
これに関する論点はたった一つでしょう。要するに「コレクターを騙すつもりがあるか否か」に尽きます ( ー`дー´)
「夜光が飴色に変色してもおかしくない年式」の時計に「フォティーナ加工」を施せば「欺く行為」と言われても仕方がありません。可能性として「あり得る」時計をベースにエイジング カスタムされたものを「フォティーナである」と見破るのは至難の業かもしれないからです。
例え誰かを騙す目的で作られたものではなくとも、誤解を生じる可能性の高い「紛らわしいフォティーナ」が二次市場に流れ出た場合、それによって生み出される混乱と被害は予想も付きません。そうなってしまう可能性が僅かでもあるならば、その手の「フォティーナ」には「倫理的な問題がある」と考えるべきでしょう。
ここで先述の「トロピカル クロノマスター」の話に戻りますが、彼の時計を好意的に捉えることができる理由はここなんです!! 「トロピカル クロノマスター」を見て「本物の経年変化により生じたパティーナ ウォッチだ!!」と判断する専門家は恐らく1人もいないでしょう。そりゃあそうです。「トロピカル クロノマスター」には、本物のパティーナ ウォッチに間違われるはずがない幾つもの「物証」が備わっているからです。
まず、ピカピカで新品仕様のケース。そしてムーブメントは「SELLITA SW510 M」です。少しでも腕時計に造詣のある方にしてみれば、これだけでも十分に「ヴィンテージに間違われない理由」になりますよね??
「フォティーナ」だって時間が経てば変化する(はず)
前段で美術品の話として書きましたが、「経年変化」が尊いのはそれが「自然の摂理によって起った」からに他なりません。故に人為的に経年変化を模倣した「フォティーナ」にはヴィンテージ ウォッチとしての価値は一切ありません。これが大前提です。
ただ「ヴィンテージ風味の時計」と捉えるなら話は違います。黄色く色を付けた夜光は多くの有名ブランドの時計に使われていますが、それら全てに今後「時間経過に伴う価値が生まれない」かと言えば、そんな馬鹿なことはないでしょう。そもそもフォティーナ ウォッチを本物のヴィンテージと同じ土俵に乗せて語ること自体が「無意味」なのです。腕時計デザインの「カテゴリーの一つ」としてしれっと納得しつつ、普通に「格好良いなぁ~」なんて呟きながら使い続ければ良いのです。
そうこうするうちにフォティーナ ウォッチにだって、いずれは「本物の経年変化」が起きるはずです。要はその時までに腕時計界隈で、何らかの価値基準が醸成していれば良いわけです。
人為的に底上げされた状態… フォティーナに起きる自然のパティーナに対して、新たな価値観は生まれるのか?? そう言った今後の議論も含めて、のんびり楽しみましょう (*´∀`*)
最後に…
自分自身が長年使ってきた結果として、魅惑的な経年変化が現われた時計にこそ最大の価値がある… ここだけは揺るがないと思います。
実際、パティーナの具合で時計の状態をある程度把握できる場合があります。美しい経年変化は美観を芳醇にする以外にも、どのように使われてきたのかを示す「履歴書」でもあるのです。
ここにホディンキーさんの記事を一部引用させていただきます。
最も人気のある実用時計にとって、色あせたトリチウムはその真正性と果たすべき機能への献身の証である。フォティーナを使えば最悪の場合、本物の計器としての時計ではなく、絵に描いた時計を腕に着けているような心地にさえなるだろう。
フォティーナには、その古めかしさの「根拠」となるものがありません。古っぽく見せかけているだけなのですから当然ですが、腕時計の歴史を最大限尊重することで「愛を証明」してきた愛好家にしてみれば、安易に歴史を具現化したフォティーナを忌避する気持ちになってしまうのも当然です。めっちゃ解ります。その「基準点」に関して言えば、全くもって私も同じだからです。
ただ結論から言えば、フォティーナはすでに市民権を得ていると思いますし、その好き嫌いについての議論を無理に沈める必要もないと思います。好きなら買えば良いと思いますし、嫌いなら避ければ良い。それくらい「当たり前のスタイル」になりつつあるのです (*´ω`*)
そう言えばこんなことがありました。某有名ヴィンテージ腕時計専門店に遊びに行く際、「トロピカル クロノマスター」を着用して行ったのですが、話の流れのままスタッフの方々に時計をお見せしたら… これがアナタ「大モテ」も良いところ(笑) 中でも筋金入りのヴィンテージ コレクターを自称するお一方は興味津々のご様子で、そこには「フォティーナ憎し!!」みたいな感情は一片もなかったのです。
要するに「フォティーナ ウォッチ」はヴィンテージの価値を毀損する存在などではなく、むしろヴィンテージに興味を抱くきっかけになり得ると考えているようでした。
クロノマスターに終始、「良く出来てる!!」と唸りっぱなしのスタッフさんでしたが、決して「本物に見える」とは口にしませんでした。そうなんです!! フォティーナ ウォッチは絶対に「本物のヴィンテージに見えてはいけない」のです。
この約束事を守ることこそが「フォティーナ ウォッチの生命線」であることは間違いないと思います。そしてフォティーナ ウォッチが「偽パティーナ」としての筋を通す限り、本物と偽物、「2つのヴィンテージ スタイル」はこの先も共存できる… 私はそう信じています (*´ω`*)
【余談です】 ホディンキーさんのフォティーナに関する記事の中で「ヴィンテージ熱につけこんで金儲けするペテン的存在」というどぎつい表現がありました(ホディンキーさんの記事に見られる攻めた言葉遣い… 私は好きです)
恐らくはイノセントなコレクター諸氏を代弁する意味合いで、敢えて使った言葉だと思うのですが… ぶっちゃけ「つけこんで金儲け」って、古今東西ラグジュアリー ビジネスの十八番じゃないですかね??
あらゆるアプローチで貪欲に儲けにいく… 個人的に腕時計はそれで良いと思います。そこにチャンスがあれば強引に掴み取る姿勢… 無策のまま停滞するよりは「百倍もマシ」ですしねぇ(笑)
ご意見・ご感想
コメント一覧 (2件)
Y太さま。
コメントありがとうございます♬
私も同じです。
お気に入りの時計に傷を付けたその日は、枕を濡らして眠りますよ(;´Д`)
でも不思議なんですよね~
半年も経つと、その傷を俯瞰して見れるようになっちゃうんです。
デスマッチファイターの背中みたいなもので、これも勲章かなぁ~なんて。
傷が入ってからが本番です。
これでようやく自分の物になった!!くらいに思っちゃいましょう(*´∀`*)
最近私もオメガスウォッチを落下させてしまい、塗装が剥げてしまいました。
同じような色の塗装材を見つけ、色を塗って目立たなくさせましたが…
これも味かと割り切ったつもりではいますが、やはりお気に入りの時計の最初の傷ってショックですよね…笑
いつか自分にもお気に入りの時計の傷をいかに愛せるマインドが芽生えたらいいなと思っております。
(貧乏症ゆえにそのマインドが芽生えるのはいつになるかわかりませんが…笑)