不肖の私、実は幼少から「少女マンガ」が大好きでして。小学3年生の頃には同じクラスの女の子に頭を下げまくって、リボンやマーガレットなど「キラッキラの少女マンガ雑誌やコミックス」を借りては、一心不乱に読んでいました。
キャラの背後にお花が咲き乱れるセンスには一向に慣れませんでしたが、少女マンガの名作「トーマの心臓」や「ガラスの仮面」など、少年マンガにはない巧みな心理描写の数々に読み応えを感じていたのです。
男の子が少女マンガを愛読するのは如何なものか…友人の男子には何度も突っ込まれましたが「女子はこんな風に考えるんだ!!」という気付きを与えてくれる唯一のツールが少女マンガであり、高校生になる頃にはアチコチで「モテたい野郎は少女マンガを読め!!」と吹聴して回るほど、少女マンガの虜になっていました。
え??私ですかぃ??
そんなことでモテたら苦労しませんがなぁ~(;´∀`)
今でこそ、凝った伏線と複雑な心理的背景を感じさせる少年マンガが増えましたが、私が子供の頃は「ドカーン!!」「ズバッ!!」「ガシャーン!!」みたいな大味なストーリーがほとんどでした。無駄に大人の世界に憧れていた少年だった私にしてみれば、少女マンガの深みのある物語が、大人世界の扉のように見えたのです。
私が読んできた少女マンガにも、時代時代の変遷がありました。女の子なら誰でも憧れるお姫様的世界観が「古臭く」なる一方、身の丈目線の物語に中に、恋愛や嫉妬の感情を織り込んだストーリーがやたらと増えたことがありました。
身の丈ですから、恋する相手はどこぞの王子さまではなく、大体は同級生の兄チャンです。
主人公の女の子は大概、容姿に恵まれず性格も地味。お洒落にも縁がないような設定です(マンガの絵としては一番可愛く描かれます)ですから、意中の男子がいても基本的には振り向いてもらえません。しかもその男子には、別に好きな人がいたりするのです。その相手は…まぁ何でしょ、所謂マドンナ的なキャラの女の子ですよ(;´∀`)
読み切りなんかではホントに多かったこういう設定。ちなみに主人公の女の子は決して自分からは告白したりしません。只々待つのです。そんな様子に読者は思います。「そんな隅っこでモジモジしとらんと、早よ行けや!!」と。私も思ってました。
しかし、何かのきっかけで地味地味な主人公の健気さに、男の子が胸を打たれるような瞬間があって、男の子自身、気が付かないうちに主人公のことを好きになってしまう…ホントこういうお話、何種類読んだかしれません。
「定型」と言っても良いありきたりな展開のストーリーですが、地味で堅実な女の子が、最後の最後で幸せを勝ち取るお話は、ある意味日本人の心に刺さるところがあります。コツコツ努力を重ねて、無償の愛を注いだ先には必ず良いことがあるはず…昔の少女マンガにはそういった寓話的な側面もあったのです。今の若い人が読んだら「これはギャグなの??」と思うかもしれません(;´∀`)
まぁ…何でこんな話をしたかと言いますと…
短い期間に「キングセイコー」と「プロスペックス」…どちらも「今が旬」なセイコーさんの時計を買ってみて、私なりに色々思うところがありましてね。何と言いますか…改めて解ったんですよ。「セイコーがある幸福」ってヤツが(*´∇`*)
何を今更ですよね??
でもね、私とセイコーさんの間には長い腕時計愛好歴の間に色々ありましてねぇ…端的に言えば「セイコーはダサい」と思っていた期間があったのですよ。別に自分の考えやセンスが下した評価として「ダサい」と思うなら、それはそれで良いじゃないですか??セイコーさんの時計と距離を置けば良いだけの話です。
ですが私の場合、アレは30歳代の中頃でしたか…とある「クレドール」を買いまして。手に入れたのは中古でしたが2000年に本数限定で販売されたモデル。私としては「買いそびれ案件」でしたし、大阪心斎橋の某所で極めて良好な個体を見付けたときには、すでに辛抱できない状態でした。今思えば、アレは何ともお洒落なクロノグラフでしたねぇ。
もちろんとても気に入りまして、朝な夕なに「クレドール」さんと過ごしていたワケですよ(*´∇`*)
私にとって「クレドール」は、セイコーさんでありながらセイコーさんではない、自立した別個の高級腕時計という認識でした。ブランドとして独立させる前の話でしたから、ダイアルには「クレドール」のロゴの他に「セイコー」のロゴも併記されていました。それこそ味があって、私にとってはむしろありがたい「ダブルネーム仕様」でした。
その頃は頻繁に、旧知の友人だけで集まる呑み会がありました。当然のように入手したばかりの「クレドール」装備で居酒屋に向かった私。腕時計の「買ったり売ったり」を頻繁に繰り返していた私ですが、この時期は「売る」が滅法多くて、手元に残った時計に大したものはなかったのです(朧気な記憶によればですが)
ですから「クレドール」さんは虎の子でした。それを着けて意気揚々と呑み会に参加したのです。
その頃でも、私の時計好きは仲間内でもそれなりに知られていまして、時計ネタが肴として投入されることが少なからずありました。私自身はほぼ下戸なのですが、宴席のみんなは良い感じで出来上がって、話す声も大きめになり始めた頃にそれは起きました(;´∀`)
「今日のおまえの時計、見せてみぃや~」とN君。いつもの絡みグセが始まったかぁ~と辟易すると同時に「クレドールさん自慢ができる!!」と喜ぶ私。そこまで言われちゃ引き下がれん。見せてやるぜ!!(左腕をズイッ)
「何コレ~クレド…ア??」…いや「クレドール」な!!(;´∀`)
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「ん??セイコーって書いてるやん??」そうや、これがセイコーの高級路線クレドールさんや!!(*´∀`)
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「セイコーとかメッチャ笑けるわ~!!」…何やとコラ!!(怒)
「笑ける」と言われてこの時はマジ切れした私。それから小一時間、N君には酒も呑ませず、クレドールさんをはめさせたままで公開説教です。
そうして半ば無理矢理ですが「すまんかった。確かに良い時計やわ」とN君に言わせた私。ここで治まっていれば「熱い熱いセイコー推し」のショートストーリーとして、美しい記憶の一つになっていたはずです。ところがこの後、この一件は私の深層心理に悪い影響を与えてくれまして…(;´Д`)
N君の言った「笑ける」が何に対してのものかが気になって気になって…結果しばらくの間、セイコーの時計を着けられなくなってしまったのです。
セイコーのどこが「笑ける」のか理解できないまま、実はそれが正鵠を射ている可能性も捨てきれず、私はセイコーの時計を遠ざけました。同級生として長年影響しあってきたN君と私。心の片隅で彼の言葉を無視しきれなかったとしても、無理からぬことでしょう。
自分自身がはじき出した評価として「セイコー笑ける」なら良いのです。他人に伝える必要はありませんが、そっと心の中で笑けるなら誰も文句は言いません。
その頃の私は腕時計好きといっても、こんな風に文章化して表現するほど、ドップリな人ではありませんでした。ただただ腕時計が好き…っていうか腕時計を買うのが好きという度し難い男だったのです。今思えば、N君の「笑ける」は、そんな私の軽薄な腕時計趣味に向けられた言葉だったかもしれません(;´Д`)
その後、マニア路線に付かず離れずの姿勢で続いていた私の腕時計趣味でしたが、セイコーに対する距離感は「気になっているのに積極的になれない」という、件の少女マンガの主人公のような状況のままでした。
「好きやったら、思い切ってアタックしろや!!」そんなエールはある時、ショッピングモールで見つけた「旧セイコー5」によってもたらされたのです。
当時、9000円くらいで買った普通の「5」でしたが、そこには腕時計の楽しさがギューギューに詰まっていました。手巻きもなく、巻板のペラいブレスレットでしたが「1万円以下でこれだけ幸せになれる時計を作れるセイコーって何なん!?」と私の目を開かせるには十分なインパクトがありました。
そんな刺激を何度も味わいたくて、一週間のうちに3本連続で買ったこともありました。まさに、1万円もしない安い自動巻きの魅力にメロメロになった瞬間でした(*´д`*)
そこから私の中に「セイコーは安い時計にも本質的に変わらない魅力を与える」という不変の評価が確立。「6R系」の「sarb033」「035」「017」といった「地味ながら良い時計」を見抜く力も備わりました。そしてようやく解ったのです。地味だけど安くて手堅くて、使えば使うほど味わい深くなる時計を作ってくれるセイコーさんの有り難さが。
そして、今年入手した2本のセイコー「キングセイコー(SDKS007)」と「プロスペックス(SBDC165)」の魅力は、セイコーさんの有り難みをさらに感じさせてくれるものでした。確かに、相変わらず地味だと思います。清楚で美しい時計ではありますが、ドレスアップしたような過剰なお色気、ラグジュアリー性能は両者とも持ち合わせていません。
ですが「キングセイコー」にしても「プロスペックス」にしても、それがホンマに良かったのです。
腕時計の良し悪しなんて、結局は「解るか解らないか」だけです。かつての私は「解っているようで解っていなかった」と思いますが、今の私はそこの部分に太い一本の柱が立っています。恐らくは誰に何を言われても、自分の価値観を信じていられると思います。所詮は自己満足かもしれませんが、これこそが腕時計愛好家としての進化なのではないかと。
私が思うに、セイコーさんの時計には地味ゆえに持ち得た類稀なる「寄り添い性能」があると思うんですよ(*´∇`*)
例えば、調子に乗って高価なスイス製の時計にドハマりした先で「上には上がいる」と思い知らされた…なんてことありませんか??
それは何とも表現しづらい徒労感を伴います。何ヶ月もロレックスマラソンを繰り返し、それでも一向に「サクラサク」が出ない状況も同様でしょう。私もそういうの…心底疲れ果てました( ´Д`)
2022年の本年、セイコーという「国産」に私が固執する理由の一つに、そういった「スイスの高級腕時計疲れ」があるとすれば、私自身はセイコーさんの存在に救いを求め、癒やしを感じているのでしょう。
多くの日本人の腕時計好きにとって、セイコーさんは評価の「特別枠」にあると信じる私。海外のセイコーマニアの情熱に、各種媒体で触れる都度「熱いなぁ」と感心させられる私ですが、それでも、セイコーさんの時計には日本人にしか受け取れない「特別なギフト」があると思いますし、その「想い」を受け取らない、或いはそれに気が付かない人がいたとしたら…日本人としてそれはとても「勿体ないこと」だと思うのです。
スイスの高級ブランド時計の度重なる値上げは、私みたいな庶民からすれば「ゴールテープを持った人が、スタコラ走って逃げていく」に等しい状況です。追っかけても追っかけても手が届かない…高嶺の花の美少女を追うが如き心境なのですよ(;´Д`)
そんな、疲れ果てた男たちにこそ「セイコーの有り難み」は染みるのです。
それは、校庭のポプラの木陰から投げかけられる視線の先に佇む、某少女マンガの主人公(おさげのメガネっ子)のように、地味で目立たない存在かもしれません。ですがそんな「じんわり絆される」愛嬌と性能を持ったセイコーさんの「内なる魅力」に気付けたなら…お財布に優しいセイコーさんの時計は、あなた(私)にとって最良のパートナーになるはずなのです。
てなわけで、高級腕時計好きの兄さんたち。たまにはセイコーさんにも目を向けて下さいね。「案外エエやん!!地味メガネっ子!!」てな感じで、絆されちゃうかもしれませんし(*´∀`)
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