『ALL WATCH CLUB』 会員募集中です

機械式とプロレスに共通する「人間味」

  • URLをコピーしました!

セイコー・アストロンを購入したことで、改めて新鮮な気持ちで「クオーツ式腕時計」の使い勝手の良さと頼りがいを再認識しました。だからといって、何かと手のかかる「機械式腕時計」への愛情は些かも曇らない。…ということで今回は、クオーツ式があるにも係わらず「それでもなお機械式にうつつを抜かす」意味はどこにあるのか?について掘り下げてみたいと思います。そのカギは「人間味」です。

見た目的にほぼ同型のモデルに対して「機械式」「クオーツ式」を用意する腕時計メーカーは少なくありません。消費者の選択肢(悩みの種)を増やす戦略としては基本中の基本ですしね。オメガ・シーマスターアクアテラやグランドセイコー辺りも、遠目に一瞥しただけでは「どちらなのか」解らない人は多いと思います。

ちなみにそういう場合、お値段的には100%「クオーツ式の方が機械式より安い」のです。

どちらがより人類の英知を集めて作られた機構かといえば、その多機能性、信頼性、他のテクノロジーとの親和性など…一般常識で考えれば、間違いなくクオーツ式の方が優れています。

過去の問題点を克服し続けるという時間軸の先に新しい技術は存在します。故に新しいものの方が優れているのは当然なことです。

そして基本的に現代社会においては「新しいものの価値が古いものの価値を凌駕」し続けてきたのです。特に先端技術の分野では二度と使われなくなって廃れたテクノロジーがわんさかある始末。新しい技術にマウントされ立場を失ったローテクは、程なくしてその価値を失ってしまうのです。

では、我らが「腕時計」の場合はどうでしょうか?

機械式の方が高価、ということは機械式のほうがクオーツ式より「価値あり」と見なされているということです。一般論的にこれはかなり特殊な状況ではないでしょうか。そしてそんな状況が、見るところ一過性のものではないというのがこれまた異常です。

この「腕時計喫茶」でも何度かお伝えした通り、時間を知るのが腕時計の役目ならば、当然、クオーツ式のほうが正確で優れているワケです。人類の役に立つという観点でいえば、光で発電して電波で時刻も調整してくれて、ついでにスマホに繋がってメッセージの着信まで知らせてくれる…これはもう完全に、高機能クオーツやスマートウォッチのほうが絶対に凄い。

それでも…どういうワケだか腕時計は機械式のほうが「上位種」とされています。クオーツ式腕時計で腕時計業界を征服しかけた日本のブランドですら、その状況は基本的にずっと変わらないのです。

急速に機能を充実させ、製造のオートメーション化を促進し続け…その結果、皮肉なことにクオーツの価値は低下してしまいました。本来これは努力の賜物であり、賞賛されるべきことのはずです。ところが巷では、低価格でも十分な性能を有しているにも係わらず「安物扱い」されてしまうクオーツ式。進歩の先にこのような評価が待っていようとは…立つ瀬がありませんよね。

もしかするとほとんどの人間は、正確無比な時間というものをそれほど必要としていないのかもしれません。平凡とした日々の暮らしの中で、クオーツ式の精度や性能はオーバースペック過ぎたってことでしょうか?

f:id:suna_fu_kin:20210821010905j:plain

いやいや、そういう問題ではないはずです。

正確で高機能なクオーツ式が陳腐とみなされ、どんなに頑張っても曖昧な時を刻み続けるしかない、不器用な機械式が珍重されるという、腕時計好きの多くが懐に忍ばせる特別なモノサシ…技術進歩の時系列からいえば「逆転した奇妙な価値観」の存在は「腕時計には正確に時間を知る以外の価値がある」という考え方が確立されている証左かもしれません。

そうでもなければ、未だ高級品の代名詞である超絶技巧の「トゥールビヨン」なんて、クオーツの側から見れば「姿勢差ってアンタなにそれ(笑)」と嘲笑される技術の無駄遣いに過ぎません。クオーツには姿勢差なんてほとんどありませんからね。

となると、現代に至ってもアナクロい機械式が持て囃されるのは何故なのでしょう。最も安易に得られる答えとしては「懐古趣味」が挙げられると思います。古き良き時代を懐かしむ気持ちは誰でも持ち合わせていますし、あらゆる分野でその時々の流行として「懐かしい何か」がブレイクすることがあります。ただ、流行ったとしてもそのほとんどは残念ながら一過性のものです。

ところが、腕時計だけは世紀を超えて何十年も懐古趣味が幅をきかせ続けています。果たして他にこのような例はあるでしょうか?

例えば自動車。何十年も前の車に大金を投入して整備することで楽しんでいる方もいらっしゃいます。でもこれは一般的とはいえない至極マニアックな世界です。

腕時計と並ぶ趣味の一つ「カメラ」はどうでしょう。カメラにもフィルムからデジタル記録への変革「デジタル・ディスラプション」が起きました。それでも未だにキャノンF-1やニコンF2、ペンタックスのLXなんかは高値で取引されています(私が所有するコンタックスRTS2は二束三文ですけどね!)

そこだけ見ると「腕時計と同じ状況」にも思えます。しかしですよ…例えば、今現在活躍するプロのカメラマンが、フィルムの一眼レフ持って仕事に行きますか?って話なのです。つまり、古いフィルムカメラの価値は実際の使用用途にあるのではなく、その懐かしさにあるということです。

自動車にしてもカメラにしても、比較的ローテク時代の価値を保ち続けているように思います。しかし共通して言えるのは、そのどちらもが「すでに実戦では心もとない」存在だということです。古い自動車は安全性が問題ですし、下手すりゃ命の危険がある。フィルムカメラはそもそもフィルムがいつまで入手できるのか不透明ですし、現像サービスだってこの先どうなるやらです。ちなみに私は一眼レフのミラーが落ちるときの音が好きでした。だけど今後、使うかと言えば二度と使わないのです。実際もうただの飾りですから。

それに比べれば、機械式の腕時計は技術変革の波に翻弄されつつも、そこから新たな価値観を構築、その後にV字回復を成し遂げた稀有な例だと言えます。もちろんそれには、機械式の伝統と文化を懸命に守ろうとした関係者の努力があったことは確かでしょう。周到な戦略でローテクの最たるものであるところの機械式腕時計に「高級品」のイメージを確立したワケですから大したものです。

さらに言えば、機械式腕時計には、先に挙げた2つとは根本的に異なる側面があります。それは機械式腕時計が未だに「現役バリバリのツール」であるという事実です。

クオーツという、どんなに足掻いても精度では太刀打ちできないライバルが存在するも、同様に「時間を知る」という重要な役割を担い続けているのです。

純粋に「可能な限り正確な時刻を知らせる」能力を競うだけのレースならば、数万円も出せば幾らでも任に堪えるクオーツ式時計が見つかります。しかし、機械式腕時計が勝負するのはもっと身近な生活レベルの時間…例えば、次の電車に間に合う時間だったり、少し硬めのカップラーメンを作る時間だったりと、そういう「たわいもない時間」なのではないでしょうか?

腕時計好き「兼」プロレス好きの私が少々強引に例えるならば、それはかつて、総合格闘技に存在を否定され、あわや消滅しかかった某プロレス団体の境遇に似ています。その顛末が後のプロレスファンの価値観をも大きく変質させたことは周知の通り。実際、数多くの優秀なプロレスラーが、本来は畑違いのリングに上げられ、巨大なパラダイムに飲み込まれ散っていきましたよね(永田さん!)

ですがどうでしょう?コテンパンに打ちのめされた某プロレス団体は、確かに一時期見る影もないほどにやせ細りました。しかし、決して消滅はしなかったのです。

根強いファンが見捨てなかった…のは確かですが、結局のところ、殴る蹴る、或いは投げる極めるの展開は同じように見えても、全く異なる価値観の基で競われるべき興行であるという、意識の「棲み分け」が生まれたのです。そしてこの構図は、機械式腕時計とクオーツ式腕時計の関係性にそのまま置き換えることができます。

「瞬殺」「秒殺」という言葉が一般的に語られるようになったのは、総合格闘技が認知されて以降のことだと思います。圧倒的で一方的な強さを見せつける試合はむしろ歓迎され、ファンは快哉を叫びました。

翻って青息吐息で生き残ったプロレスはというと、元来の力と技を競う試合展開を楽しむという価値観に、選手たちの背景にある人間ドラマをプラス。エモーショナルで「泣かせる」名勝負の数々を提供し続けることで「強さとは何か」を観客自身に問いかけています。

例えば、プロレスを見始めたばかりの人の脳裏に必ず浮かぶ疑問として「この技は本当に効くのか?」というものがありますが、ハマってくるとそんな疑問はどうでもよくなってきます。「プロレスとはそういうモノだ」という考え方が生まれるからです。

技を食らったレスラーが「効いた!」というリアクションを取れば効いている。怒声とともに立ち上がってきたら「効いていない」「効いたけど我慢している」ということなのです。

ダメージの多寡は選手のムーブから判断するしかありませんが、その解釈については試合を観戦するファンに委ねられています。例えば「負けること」にすら明確な意味があり、その負け方次第でレスラーの価値は大きく変化するのです。

リアルファイトの世界だと「負ければお終い」という感じですが、勝敗をドラマとして捉えるプロレスにおいては「負け役」の存在はむしろ必然。それは決して「無駄」ではないのです。つまり、プロレスは試合の勝敗やタイトル獲得や防衛といった公式記録ですら、価値基準の一つに過ぎないくらい奥深いものなのです。もしもプロレス好きの空海とプロレス好きの最澄がいたとして、互いのプロレス観をぶつけ合う問答を行ったとしたら…迷える数多のプロレスファンを導く「答え」は見つかるでしょうか?密教の真理並みに難しいと思いますね。私は。

この本来、格闘において最大の価値である「勝敗」すら絶対のものとしないプロレス独特の世界観が、プロレスオタクな私の頭の中では、機械式腕時計を愛好する精神構造と、極めて多くの点で符合するのです。

時計としてあるべき「正確な時間を追求する」という使命。その「リアルファイト」な部分とは別の価値観で、ひたすらに良いものを追求し続ける機械式腕時計の世界…不器用で愚直なその歩みには「人の世の悲喜こもごも」同様の味わいがあるのではないでしょうか?

機械に「人間味」を感じるというのは些か奇異なことですが、ゼンマイの限りある運動を調速して、手足たる「針」を動かす繊細な機構に、ある種の「生命」を見る腕時計愛好家はたくさんいるはずです。そこに儚さとともに愛おしさを感じる人も少なくないでしょう。

正確無比なクオーツ式が「秒殺」をキメる試合を横目に、機械式の愛好家としては、何十分も費やす展開の「プロレス的」な試合をゆったりと楽しみましょう。ロービートのたどたどしい運針や2日も保たない動力だって何のその。そういった「雑味」あってこそのプロレス…いや、機械式なのですから。

てなこと言いつつ、アストロンみたいなクオーツ式に「お手軽・便利」を求めちゃうのも、現役世代の腕時計愛好家に有りがちなことですけどね(;´∀`)

ブログランキングに参加中です

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

Please share this article.
  • URLをコピーしました!

ご意見・ご感想

コメントする

Table of Contents